郷土をさぐる会トップページ     第07号目次

鹿の沢台地の井戸掘り
〜開拓者の命であった飲料水〜

分部 博 昭和四年八月十五日生(五十九才)

「郷土をさぐる」第二号より第五号まで読ませていただきました。
この編集にあたられた会長金子全一様はじめ、編集委員の方々のご苦労、ご努力に対し、心より感謝申しあげます。
上富良野町も、明治三十年、開拓の鍬が下されてから、明治、大正、昭和と九十年の歳月が流れたわけですが、町の発展に、貢献された方々の業績を史実に基いて、後世に伝えたいということで、今回、表題についての原稿の依頼をうけましたが、内容になりますと、私どもの祖父、父、兄弟のことになり、まことに、史実も古く記憶も薄れていますので躊躇していました。しかし、「開拓秘録」として、永く子孫に伝えるものであるとのお話があり、今回厚かましくも書かせていただくことに致しました。

私どもの祖父牛松、祖母しうは、長男亀吉(十一才)、長女みの(九才)、次男倉三(一才・私どもの父)の三人の子どもをつれて、明治三十年、三重県伊勢国河芸郡合川村大字三宅より、田中常次郎を団長とする北海道開拓移民団に加わり、渡道することになっていましたが、祖母しうが妊娠中(倉三)とのことで、一年おくれ明治三十一年五月に渡道したと聞いています。

入植したところは、現在の草分地区で、西二線北百七拾七番地でした。
入植当時の生活は、故吉沢くらさん(父、倉三の仲人)のお話(第一号)にもありましたが、生活に必要な食料の購入は、旭川まで行かねばならなかったと聞いております。
その状況は、太陽が出ると、上富良野を出発し、四十四粁の道を、二日がかりで往復したようです。第一日目は、明るくなるのを待ち旭川へと向い、旭川で買いものをし、現在の西神楽まで帰り、そこで泊りました。翌日(第二日目)明るくなるのを待ち、明るくなると同時に、西神楽を出発上富良野に向い、上富良野に着くころは、日も落ち暗くなっていたと聞いています。
食糧の運搬は、天秤棒を使い、前方に〇・七米三〇粁、後方に一米二〇粁と正油、みそ等をふりわけてかつぎ、四十四粁のふみつけ道を通ったようです。私どもの祖父は、体格も良く強健であったので、このような方法で、荷を運ぶことが出来ましたが、身体の小さな方、家族の多い方は、このような方法で、買出しも数多くなったと、私どもに話してくれたことが思い出されます。

私どもの祖父母、父、兄弟は、大正十五年五月二十四日十勝岳の大爆発まで、入植地にて水田農家として開墾に励んでいました。父は、これからの農家は、動力を使い、農作業を早く終らせる時代になるだろうと云う事で、ドイツ製の発動機を購入し、米の脱穀、粗すり等を、手作業から、動力による作業にとかえ、作業を早く終らせ、冬期間は、動力を活用し、副業として、農機具(鍬の柄やトビの柄)の製作をし、その製品は、○一金子金物店、阿部金物店、富良野市の布川金物店等に卸しておりました。

大正八年頃、父は、水田作り、副業の農機具作りに甘んずる事なく、鹿の沢台地に、三〇町歩程あった土地に、大農場の経営の夢をいだき、開墾をはじめました。ところが、現地には飲料水がなく、現在の藤山宅まで、もらい水をしなければならなかったのでした。当時としては、大変な仕事であったようです。
父、兄弟は、鹿の沢での夢をかなえるには、どうしても、現地に飲料水を確保する必要がありました。そのため冬期間に、兄弟で協力して井戸掘り作業をするの決意をしました。はじめは、簡単に考えていたようですが、予想外の年月を費やし、その井戸の規模は、直径三米、深さ七〇米になったと聞いています。
作業道具は、昔のことで、現在のような機械はなく、剣先スコップ、ツルハシ、ざるかご、もっこ、ロープ(長さ百米程)、滑車(直径四十五粍程)等であったようです。

大正八年、農作業も早月に終らせ、兄弟は鹿の沢台地に行き、作業に取りかかりました。作業方法は、掘る者と掘りあげられた土や岩石を地上の低い所に運び整地する者との役割をきめてやったようです。
第一年目は、地質も柔らかく作業も進み、約三十米程掘ることが出きました。しかし水は一滴も出てこなかったようです。
第二年目の冬、兄弟は、今年は、水を出してみせると更に掘りはじめました。だんだんと井戸の深さも深くなり、作業も困難になってきました。三十五、六米の深さになったころ、岩盤にぶつかり、作業道具のツルハシの先はすぐだめになったため、特殊な焼を入れて使用し掘り続けましたが、一日二十糎程しか掘れなくなってしまいました。底の広さも、直径が二米強ぐらいになってきたため、ダイナマイトを使用することになったようです。
底の周りだけ掘り下げ、すり鉢を伏せたような形に掘り、中心に穴をあけ、そこにダイナマイトを仕かけ、導火線を使い火をつけ、地上の者に綱を引いてもらい自分も綱を県命に引き、爆発前に地上に登らねばならなかったので大変な力が必要であったとの事です。この作業を繰り返していたようです。時には、地上に登りつく寸前に爆発した事もあったと聞いております。命がけの作業だったのです。そうして二年目も、一滴の水を見ることなく終ってしまいました。その時の深さは、約六十米程であったとの事です。

三年目の冬を迎え、あきらめる事なく、どうしても水がほしいと、兄弟は掘り続けたようです。その頃、地質も変ってきました。父、兄弟は、水がでそうだと頑張りましたが、六十七米まで掘ったところで冬が終ってしまいました。
四年目の春、父、兄弟が台地の井戸の状態を見に行くと、約七十米の深さの底の方に、キラキラ光るものが見えました。そこで石ころを落すと、しばらく時間がかかって「ポチャン」と云う音がしました。そのとき、父、兄弟は、大きな声で「水が出た」と叫び、抱きあって喜んだものだと聞いております。

三年がかりで、自分たちの手で井戸(飲料水)を確保することが出来たのです。
この事により、鹿の沢での大規模農場の夢は、更にふくらんだと聞いています。
その後、鹿の沢台地における開墾も、立木(なら、たも)を倒し、笹の根を切り、荒地を耕し、耕作面積も順調に殖やしていきました。
大正十五年五月二十四日、突然十勝岳の大爆発があり、入植以来、苦労して耕作していた草分地区の水田は、一瞬にして泥海と化してしまったのです。
父は、市街地に出ました。そうして、泥海と化した水田地の復興のための、トロッコの台や、農機具製作をやるようになりました。その仕事をやるには、どうしても動力が必要であったようです。泥海の中より、発動機を掘出し修理をして使用したとのことでした。この発動機は、電力が入るまで使用していました。

昭和七、八年頃、不景気の時代がおとずれ、農機具の製作では、生活が困難になりましたので、再び鹿の沢で畑作をやるようになりました。作物は、除虫菊、赤えん豆、青えん豆、えんばく等でした。このように、畑作が出来たのは、かって苦労しながら掘った井戸があったからだと父は、話しておりました。
その後、鹿の沢の畑地も、時代の流れにそって、植林地になりました。この作業にも、父、兄弟が掘った井戸水を利用していました。

現在、鹿の沢の土地は、一部は植林地として、木が植えられています。大部分の土地は、私どもの母の実家である前田耕司氏が私たちの父の意志を継いだのか大型の畑地に意欲をもち、毎年耕作面積を広げています。
父、兄弟が、飲料水をもとめて、三年間(冬期間)掘り続けた鹿の沢台地の井戸はもう七十余年もたちますので、自然に崩れ、五〜六十米は、うまってしまい危険な状態ですので、三米程の金網の蓋をしてあります。全部埋めてしまう事が安全だと考えておりますが、父、兄弟が、永年苦労しながら掘った井戸であり、私たち兄弟に、何事も忍耐と努力があれば、成し遂げることが出来るのだと教えられているような気が致し、なんらかの形で残したいものだと思い埋めることを鋳躇しているところです。

おわりに、私たち兄弟は、父が残してくれた職業を受け継ぎました。それぞれの職業についていられるのは、自分たちの努力もあるだろうが、その基盤を作ってくれたのは、祖父母であり、父母であり、未開の地に入植し、苦労しながら、上富良野町発展のために、貢献された先人のおかげであることを忘れることなく、お互に努力していきたいものだと思っています。

機関誌 郷土をさぐる(第7号)
1988年10月25日印刷 1988年10月30日発行
編集・発行者上富良野町郷土をさぐる会 会長 金子全一